NHK大河ドラマ
「いだてん~東京オリムピック噺~」
が始まっています。
現在の日本のオリンピックに、なくてはなら
ない2人の重要人物の物語です。
■メインキャスト■
一人は、”日本で初めてオリンピックに参加
した男”…金栗四三さん。
中村勘九郎さんが演じます。
もう一人は、”日本にオリンピックを招致
した男”…田畑政治さん。
阿部サダヲさんが演じます。
芸達者なお二人が、明治、昭和と時代を超えて
其々の立場からオリンピックを目指して走り
ぬけた二人を熱演されます。
前半のドラマで中心となる金栗四三さん
について調べてみました。
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■金栗四三さんとは?■
調べる程に、偉大な方で教科書に載せる
レベルの方だと思いました。
今回、大河ドラマに取り上げられて日本
中に広く知れ渡る事ができて、よかった
と思います。
これから書く事が、ドラマにどれだけ
盛り込まれているのかわかりませんが
ネタバレ部分もあるかと思われます。
ご了承ください。
・1891年8月20日~1983年11月13日。
・熊本県和水町出身。
・長く続いた村の名家の8人兄弟の7番目で、父が
43歳の時に生まれたので、四三と書いて
”しそう”と名付けられた。
・5歳頃までひ弱い子だった。
・小学生になると、学校までの12キロを走って
行く「かけあし登校」を始め、マラソンの基礎
を築く。
・旧制玉名中学校を卒業後、1910年、
東京高等師範学校(現:筑波大学)に入学。
■オリンピックへ■
1911年、ストックホルムオリンピックの
マラソン予選会に出場。マラソン足袋で当時の
世界記録を27分も縮める大記録(2時間32
分45秒)を出し、日本人初のオリンピック
選手となった。
■過酷すぎて棄権者続出‼■
1912年第5回ストックホルム大会出場。
しかし、金栗四三さんのマラソン記録は
「途中棄権」(JOC公式サイトの日本代表
選手団記録)…なぜでしょうか?
(1)ストックホルムまで日本から20日に
およぶ船旅だった。
(2)現地は緯度が高く、昼間の時間が極端
に長く睡眠障害に悩まされた。
(3)現地では、米が入手できず、予算の都合
もあって食料が十分なかった。
(4)マラソン当日、迎えの車が来なくて、
競技場まで走って行った。
(5)最高気温が40度という記録的暑さ
だった。
以上の悪条件が重なったため、金栗さんは
体調不良(日射病)になり、マラソン途中
で倒れました。
大会関係者は、多くの脱落者の救護でこの
アクシデントに気づかず、沿道農家の
ペトレさんが介抱してくれたそうです。
(倒れた選手の中で、ポルトガルの選手
は病院に運ばれましたが、翌朝亡くなっ
たそうです。「スポーツ生理学」と言う
言葉すらなかった時代の悲劇でした。)
翌朝目覚めた金栗さんは、既にレース
も終わっていて、そのまま帰国しました。
■最も遅いマラソン記録■
この、残念なマラソン競技には感動的な後日
談がありました。
1967年3月、金栗さんは、スウェーデン
のオリンピック委員会からストックホルム
オリンピック開催55周年を記念する式典に
招待されました。
「競技中に失踪し行方不明」として扱われ
ていた金栗さんをゴールさせたいと…
招待を受けた金栗さんはストックホルムの
競技場を走り、ゴールテープを切りました。
日付は、1967年3月21日。
「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、
54年8か月6日5時間32分20秒3、
これをもって第5回ストックホルムオリン
ピック大会の全日程を終了します。」と、
イキなアナウンスが流れました。
この記録は、オリンピック史上最も遅い
マラソン記録であり、今後もこの記録が
破られることはないだろうと言われて
います。
ゴール後のスピーチで、金栗さんは
「長い道のりでした。この間に孫が
5人できました。」と…
■100年を経た感謝■
さらに、ストックホルムオリンピックから
100年経った2012年、金栗さんの
ひ孫にあたる、蔵土義明さんがオリンピック
開催100周年記念行事に招待されました。
100年前と同じコースを走るマラソン大会
と、金栗さんの功績を称えた顕彰プレート
除幕式のためでした。
蔵土さんは当時と同じゼッケン「822」を
つけマラソンに参加。100年前金栗さん
が倒れたといわれた場所でペトレさんの
ひ孫のタチアナさんが用意したシナモン
ロールとラズベリージュースで接待を受け、
大歓声を浴びながらゴールされました。
「走っている途中、多くの方から”日本
がんばれ!”と声をかけていただき、スウェー
デンの方の温かさ、曾祖父の偉大さを感じま
した。」(蔵土さん談)
日本マラソン界の父であり、箱根駅伝の
開催にも尽力され、指導者、教育者として
も多くの功績を残された金栗四三さん
その活躍を描くドラマ「いだてん」
も楽しんで観たいと思います。